歴史
2021年1月05日ゲオルギー・マナエフ
犯罪者を罰するこれらの野蛮な方法は、遥か昔に禁止されたが、ロシアの過酷な過去について多くを物語っている。
1. 人間に烙印を押す
この古の犯罪者識別法は、ロシアでは1398年に、モスクワ公国の法令に初めて出てくる。これは、有罪判決を受けた泥棒に烙印を押すことを命じるものだった。1637年には、貨幣偽造の罰として烙印が導入された。
この烙印は、犯罪者の頬と額に灼熱した金属型を押し当てて、文字の印を焼きつけるというもの。ふつうは「ВОРЪ」(泥棒)が、犯罪者の顔に焼きつけられた。単一の文字「В」(「泥棒」の頭文字)、および「Б」(「叛徒」の頭文字)は、より軽い犯罪に使われた。
ピョートル大帝(1世〈1672〜1725年〉)は、新型の焼き印を導入した。これは、プレートに文字の形をした鋭い針の付いたものだった。火薬を針の残した穴になすりつけることで、烙印が一生消えないようにした。
1746年以来、烙印は、あらゆる種類の有罪判決を受けた犯罪者に適用された。
1754年、有罪判決を受けた者の額に「B」、頬に「O」と「P」を焼き印する命令が出された(3文字で「ВОР」つまり泥棒となる)。
その後、「KAT」(「徒刑」の略語で、「重労働の懲役刑」を意味する)も、焼き印されることになった。
女性は1757年に、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナにより烙印を免除された。70歳以上21歳未満の者と貴族も同様に免除。ロシアでは1863年にようやく、人間への焼き印が禁止された。
つづく
指や耳を切り落としたり、鼻孔を割いたりすることも、焼き印と同様に用いられた。つまり、犯罪者を一生、一目でそれと分かるようにした。
「1649年会議法典」では、ツァーリの前で剣を抜いた者、あるいは宮廷で殺人を犯した者の腕を切り落とすべし、とされた。馬泥棒も腕を切られた。
泥棒は、左手の2本の指を切断するか、左耳(初犯)、次に右耳(再犯)を削がれた。酒を密造した者、および密造施設を所有した者は、耳、足、腕を切断された。
1724年、ピョートルの勅令により、終身徒刑を宣告された者は、鼻孔をペンチで割かれた。この野蛮な刑罰はやっと1817年に禁止された。
3. (重い)鞭打ち
この種の体刑は、ロシアでは長きにわたり知られてきた。1497年、それは正式に「トルゴーヴァヤ・カーズニ」(「マーケット広場での処刑」、つまり「公開処刑」)と名付けられた。
「鞭打ち」は、「クヌート」(鞭)を使って行われ、特別な技術が必要だった。新米の刑吏は、実際の刑の執行に参加する前に、この「技」を1年間も学ばねばならなかった。
クヌートは、2.5〜2.7メートルの「本体」に、木製の把手が着いていた。本体は、革紐を編んだものがいくつか束ねられており、先端に長さ約70センチの革製の「くちばし」がついていた。この部分は、塩に浸してから天日で乾かして固めた。
刑吏は、数歩離れて立ち、「くちばし」のみで背中を打った。10〜15回打つと、「くちばし」は流れる血で柔らかくなり、交換する必要があった。
ナポレオン麾下で勇名を馳せたルイ=ニコラ・ダヴー元帥の息子、ナポレオン=ルイ・ダヴーは、1832年に、モスクワの刑吏から鞭2本を500ルーブル(刑吏の年俸は400ルーブル)で密かに購入し、パリでその実演を行ったため、大衆は大騒ぎになった。ロシアの皇帝ニコライ1世はこれを聞いて激怒し、今後は刑吏の道具をもっと安全に保管せよ、と命じた。
100〜200回鞭打たれると、実質的に死刑になりかねなかった。「くちばし」は皮膚をズタズタに引き裂いた。ある刑吏は、たった3回の鞭打ちで殺せると言った。
「最初の何回かの打撃で、ふつうは深いうめき声が聞こえて、すぐに止んだ。その後、囚人は肉片のように切り刻まれた。20〜30回打つと、刑吏は、ウォッカを1杯注いで飲んだ後に、「仕事」に戻る。これら一連の作業はやたらと時間をかけて行われた」。画家ラヴレンチイ・セリャコフは回想している。
賄賂をやれば、プロの刑吏は、囚人をまったく傷つけることなく、あるいは軽い傷をつけるだけで刑を執行することがあった。しかし、せいぜい50〜60回でも、「本物の」打撃を受ければ、普通の男性は、内臓破裂と出血のために、2〜3日で死ぬ可能性があった。
農民の一揆や反乱に対する通常の刑罰はまさにこの鞭打ちだった。シベリア徒刑となり重労働させられる者もすべて、鞭打ちの対象となった。
鞭打ちはやっと1845年に禁止され、次に述べる軽い鞭打ちに換えられた。
これは、革紐を編んで作った鞭による、より軽いバージョンだ。上述の重い鞭打を免除されていた聖職者に対して行われた。有罪判決を受けた者は、あん馬のような台に横たわって、革製の鞭で打たれた。
1781年以来、軽い窃盗(20ルーブル以下に相当)を犯した者に対し、この鞭打ちが行われた。さらに1799年以後、20ルーブル以上の窃盗は、鞭打ちと農村での強制労働が科された。
この鞭打ちはまた、農奴にも用いられた(地主は、農奴を裁く権利を有しており、その命令で科せられることがあった)。また、暴動を起こした労働者と農民に対する刑罰として、さらに教育機関における最も厳しい罰として行われた。密輸、近親相姦、獣姦、冒瀆、逃亡犯や農奴の隠匿、詐欺、窃盗――これらすべてが鞭打ちの対象となった。しかし、1863年にやっと禁止される。
5. 列間笞刑
ロシアのこの刑罰は次のようなものだ。有罪判決を受けた兵士が、2列に並んだ兵士たちの間を歩かされ、その際に兵士たちは、細長い棒で彼を打つ。その道具にちなんでこの罰は、しばしば「spitzrutens」と呼ばれた。
この罰は、軍隊用として、1701年にピョートル大帝によって導入された。当初、この棒は、長さ2.1メートル、直径4センチの柳の枝を塩水に浸したものだった。
有罪とされた兵士は、100〜800人の兵士がつくる列の間を通らされ、兵士たちは棒で彼の背中を殴った。罰せられた兵士が棒をかわすのを防ぐために、彼の両手は、別の兵士が持つ銃に縛りつけられており、しかも銃剣が腹部に向けられているので、前方に走り抜けることはできなかった。兵士は銃の台尻を持って、2列の兵士の間を、罰を受ける兵をゆっくりと引いていった。
これが整然と秩序だって行われた場合、それは事実上の死刑判決でもあった。多くの場合、列間笞刑による処刑の後、兵士は数日以内に死亡した。
列間笞刑は、さまざまな罪に適用された。「軍事演習での不注意」と「軍服への不注意」(100回の笞刑)、「酔っ払い」(300〜500回)、「盗難」(500回)など。脱走は、初犯なら1500回、2回目は3000回、3回目は5000回。最大の罰は6000回だった。
これほどの回数を宣告された兵士は、1回の「セッション」でまとめて打たれるのは無理だったから、何千回かずつに「分割」され、各セッションの間に、病院で背中を治療した。
もちろん、軍隊での「通常の」列間笞刑では、兵士の背中をあまりきつく打つことはなかった。さもなければ、軍隊は次第に消滅していっただろうから。
この種の罰も1863年に禁止された。
https://jp.rbth.com/history/84695-katsute-roshia-okonawareteita-taikei
>ツァーリの前で剣を抜いた者、あるいは宮廷で殺人を犯した者の腕を切り落とすべし、とされた。
これとか死刑でいいだろ
事実上の死刑だろ
その時代で腕がない人間が生きていけない
ちょっと前にイスラムで、生きたまま5人くらい吊るして火あぶりとか、もう二度と見たくないわ。
もう二度と見たくないから絶対貼らないでほしい。
憎しみの感情と苦痛を与えるために手間をかけるマメさが足りない
生でみたい
刑を行うなら切断にして欲しいと要請されるぐらいポピュラーな罰則だった。
おそろしあ。
・切腹-武士階級のみ
非公開、介錯による斬首。遺体は遺族に渡される
・磔-市民階級以下(武士にはない)
公開刑。三尺高い木の上で、槍で突かれて刑場に3日間晒される
・死罪-市民階級以下
公開刑。いわゆる「斬首さらし首」3日間晒される
胴体遺体は返されず、試し斬りの具にされる。
・下手-市民階級以下
業務上過失致死など事情がある場合の死罪。非公開刑
「下手人」などの元になった温情のある死刑
・火焙-ひあぶり
人に危害の有無を問わず放火に対する死刑。
公開で火力の強い藁束を積まれ丸焼きにされ、3日間晒される
釜ゆではないの?
江戸と大坂では火あぶりの方法に違いがあって大坂では鉄柱に罪人を鎖で繋いで動けるようにして四方から火をたく
または巨大な金属の壺の中で火をたいて壺を罪人に抱かせる
これ残虐すぎるので改善して下さいと大坂町奉行が幕府に要望出してる
即死できる刑罰は概ね人道的と言われるね。ギロチンとか打ち首とか。
凌遅刑などは野蛮と見なされがち。
牛や豚の屠殺と一緒やね。
ヤギは塩味が好きだから、罪人の体に軽く傷つけて血が出るようにしとくと、骨が露出するまで舐め続けるんだって
面白いか・・・?
は今でもやってる国あるし
ロシアオリジナルの無い
他のとこでもやってる
今でもむち打ちは普通に東南アジアでやってる国あるじゃん 近所だぞ
右手で盗んだら右手切り落とす もご近所の国でやってるし
浅野内匠頭は切腹に御家断絶だったのに
そんなに重罪か?
そこら辺は脱税になるから国家に対する反逆として重いんじゃない?
その国の歴史、文化、宗教等によって罪の軽重の基準は違うからね。
ムスリムにとっては飲酒は神の教えに背く重罪だろうしね。
日本では歴史的に放火の罪は海外基準より重罪扱い。
あと市民の銃所持は米国では憲法で保証された権利だが、日本では犯罪だ。
女は村の人間と結婚すれば刑務所から出られると(村からは出られないが)ゴールデンカムイでみた
周りに味方いたら使いにくいし、相手が鎧着てたらダメージ与えるの難しくなる
拷問や見せしめには有効だけど純粋な武器としては使い所が難しいんでしょう
人間の解体もお手の物
漢の時代あたりまでがまともでその後の中国は残酷無慈悲
モンゴルの欧州圧迫でロシアにもその習慣が伝わったのか・・・想像
繁華街で見せしめはよくあるらしいからな
豚の皮に包んで埋葬するってのは天才の発想だと思った